ここは大人の遊び場だ~
この辺りを自転車で行くと、シコシコ昇ったりぐい~っと曲がって下ったり、いろいろな景観が次々現れて、その背景を思ったりして楽しいで~す! 2023年11月末

台地と谷筋・水と緑の織りなす風景に住宅地広がる
奥市川は、起伏ある地形の上に、公園・緑地、緑のトンネル、静かな水辺(じゅん菜池・谷津)、畑、貝塚、見晴らしの良い丘地、閑静な住宅地、そして博物館やお寺(モダンなデザインも)が織りなす、独特の景観が広がっています。

地形
下総台地は、千葉県北部・東西に広がる標高20mから50mのなだらかな台地です。
奥市川はこの下総台地の西南縁辺部にあたります。台地は、国分川と大柏川に沿って大きく割られ、そこに谷津と呼ばれる細かな谷ができて、一帯に低地を形成しています。
里山
この地形と水利の良さを利用して、台地上には畑、谷には水田がつくられ、これらを耕作する農村が広がりました。この環境が今に続く豊かな里山の景観を育んだのです。
住宅地
そして、開発の波が押し寄せます。鉄道や幹線道路の敷設を契機に宅地化が進み、高度経済成長期には大規模な宅地造成も行われました。その結果、今では長閑な里山風景と広大な住宅地が上手くマッチした地域となっています。

歴史は ‥‥
●海だった現在の低地部、台地の上には貝塚や古墳
縄文時代:台地の下は遠浅の入り江になっていて、絶好の漁場であったことから人々が暮らすようになり、今でも台地の先端部には貝塚が多く残されています。
古墳時代:水田稲作を中心とした農耕社会が定着して豪族が誕生しました。その名残に、国府台台地には古墳が群集しています。
●市川に下総の国の国府
大化の改新(645年)のあと、国府台に下総台地一帯の国府が置かれ(下総の国の成立)、文人などが多く往来する土地となりました。山部赤人らによって手児奈の歌が詠まれたのもこの頃です。
●農業の拡大
江戸時代に入ると、台地上の畑と谷の水田を耕作する農村が広がり、水田を望む緩斜面上には屋敷も見られました。
●軍隊の進出、鉄道の開通と市街化の始まり
明治に入って軍隊が国府台に置かれ、総武鉄道が開通し、江戸川橋ができると、都市としての基盤も整い市街化が進んで行きます。
●そして住宅都市へと発展
関東大震災後、市川は東京の下町の人たちの移住が続き東京に通う人たちが増え、鉄道周辺にも住宅地が広がっていきました。さらに戦後の急激な人口流入で、田園地帯も宅地化が進み、高度経済成長期の大規模造成につながっていきます。
そして現在、総武線・京成線の北に北総線が開通し、今までは畑だった台地の奥の方にも、市街地が拡大し続けています。
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